踏み込みたい。
だけど踏み込めない。
ここがギリギリ。
僕らの関係を保つ最低ライン。
小さな主張
僕と彼女の一定距離
「じゃあまた来週ね、さようなら」
「静先生、さよーならー」
勢いよく教室の扉が開き、小学生くらいの子が5、6人、飛び出してきた。
片手にレッスンバッグを下げ、教室の出入り口に立っている女性に手を振りながらロビーを横切って走っていく。
僕の前の時間に静先生のレッスンを受けている子供たちだ。僕は階段の奥に子供たちが消えるのを横目で見送った。
「修二君、遅くなってごめんね。入って。」
柔らかな声に振り返るとすぐ横に静先生が立っていた。
少し口角を上げ、──大人がよく使う、美しく卑怯な笑顔で──微笑みながら僕の肩に手を置いた。その作ったように顔に貼り付けた笑顔が僕は大嫌いだ。
気に食わない。僕は先生の恋人なのに。
どうしてそんな他人行儀な笑顔をするのだろう。もっと、先生の本当の笑顔を見せてほしいのに。
僕は黙って静先生の顔を見つめ返した。
「ほら、早くしないと加奈ちゃんが来ちゃうわ。」
静先生が困ったように呟いた。僕はちらりと時計を見る。壁の時計は六時十分を指していた。
六時半には幼馴染の加奈がグループレッスンを受けに、ここへ来てしまう。
僕と先生が二人きりになれるのは毎週この三十分だけなのに…。
しぶしぶ僕は、椅子から立ち上がった。静先生がまたにこりと微笑んでレッスン室の方へ歩いていく。
遠い。静先生の背中が遠い。
充分に手が届く距離に居るのに、どうしてなんだろう。
僕は思わず静先生の肩をつかんだ。静先生を僕の方へ思い切り引き寄せる。
「な、何?修二く…。」
「先生、黙って。」
「やめて。」
凛とした声がロビーに響いた。その声に、僕は今にも触れそうな唇をピタリと止める。
そっと上目遣いで先生を見つめた。先生の顔からは笑顔が消えている。
「レッスン室では先生と生徒になる約束じゃなかった?」
ね?と言う声とともに先生の顔に笑顔が戻る。その笑顔に、僕は何も出来ずにただ立ち尽くした。
やっぱり、僕は此処から動けない。
本当はもっと踏み込みたい。恋人なのに、キス一つできないなんて。
わかっている。もし誰か僕たちの関係がばれたりしたら。先生がそう言う理由も理解できるし納得できる。
だけれど。
僕は先生の手をとった。
先生は少し驚いた様子でこちらを振り返ったが、にっこり笑って僕の手をひいてレッスン室へと入っていった。
これが、ギリギリ。僕たちの距離を保つ、最低ライン。
僕は握られた手を強く握り締めた。
+End+
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