約束



Scene.1


やっと海岸線まで来た。多分、彼女はここにいる。

俺は、乱れる呼吸を整えようと一旦走るのやめた。
額を伝って汗が際限なく噴き出している。
汗をぬぐうために眼鏡をはずすと遥か遠くに沈んでゆく太陽が歪んで見えた。もう半分ほど、その姿を海に隠していた。

海に沈む太陽を見る度、いつも思う。
まるで何かに追われて逃げていくみたいだ、と。
逃げて逃げて、逃げ切れなくて、また地上を通りすぎていく太陽。
俺も、多分逃げている。この、胸を埋め尽くす、甘く暖かい感情から。
いつの間に、こんなにものめり込んでしまったのだろう。気付かない振りも、もう限界だ。
どうせ同じ「許されない恋」なら、物語のようにお姫さまと騎士のほうがいくらかましだった。 もしそうなら、俺は、愛しい姫をさらって、二度と離しはしないのに。
“先生と生徒の壁”はよくある少女漫画のそれよりも遥かに高く、厚かった。

頭を大きく横に降って、邪魔な感情を取り除いた。
ちらりと腕時計を確かめる。日没まであと30分。 辺りが暗くなる前に見つけ出さなければ。
呼吸が元通りになったのを見計らい、海に臨んだこの道を俺は再び走り出した。




Scene.2


薄暗い廊下。西陽が長い影をつくっている。
終業してからもう2時間もたつのに、教室の中に、まだ誰かいるようだった。
よかった、鍵をとりにいく手間が省ける。忘れ物なんてするんじゃなかったな。
そう思ってドアに手をかけたとき、中から話し声が聞こえてきた。

「答えてくださいよ、先生。」

耳をすます。どうやら、先生と白原君が何か話しているようだった。
物音を立てないように、静かに、ドアに耳を当てた。

「いい加減にしろ、白原。」

一瞬、ドキリとした。先生の声は二人きりの時に聞く甘くて温かみのあるそれではなかった。
白原君がまた何か、先生をからかったのだろうか。それにしては棘のある、攻撃的な声だった。
いつもの二人からは想像も出来ない険悪な空気が教室内を循環している気がした。

「先生が答えてくれないから、俺は何回も聞きなおしているんじゃないですか。」

「だから、さっきから言っているだろう。依藤とは、ただ海に行っただけだ。」

私は、突然自分の名前が挙げられた事に驚いた。目の前で繰り広げられている重い会話は私に関係があるのか。私には何も心当たりが見つからない…こともなかった。
海。そうか、海に行った日のことを話しているのか。
私は大きく頷いた。でも、どうしてそんな話をしていうのだろう。白原君がそれについて何度も尋ねる理由も、先生がそれについて答えない理由もわからない。
もしかして、私と先生の関係を疑われているのだろうか。
あの日、確かに私は先生と一緒に海へ行った。行ったが、それだけだった。
やましいことなどなにもしていないし、隠すことなどなにもない。……私の恋心と先生の言葉以外は。

「そんなことはわかってます。俺が聞きたいのは先生の気持ちです。依藤さんのこと、どう思ってるんですか?」

「………。」

沈黙がやけに冷たい。糸が張り詰めるような、という形容詞はこういう時に使うのだろう。
やっぱり疑われていた。先生の気持ち。
そんなの、私が一番知りたい。
そう言って中に入っていこうかとも考えたが、もしそうすれば先生は何も言ってはくれない気がした。
じっと、先生の言葉を待つ。

「どうしたんですか、先生?答えられない理由でもあるんですか?」

「……依藤はただの生徒だ。それ以上でもそれ以下でもない。」

次の瞬間、私は廊下を駆け出していた。



Scene.3


「見つけた…。」

やはり、彼女は海にいた。
浜辺に腰をおろして沈みゆく太陽と赤黒く染まった海を眺めている。その後ろ姿はちいさく丸まっているように見えた。
波が彼女の足元を掠めてはまた海へと戻っていく。
このまま彼女は、行ってしまうのではないか。手の届かない、遠い、どこかへ。

「い…」
依藤、と呼ぼうとしたが上手く声が出ない。今、俺は彼女の名前を呼んでもいいのだろうか。
心のなかで罪悪感が、不安が渦を巻いて高く積み上がっていく。
今彼女と話をして、俺の気持ちはちゃんと伝わるだろうか。聞いてもらえるかすらも怪しい。
俺は彼女を傷つけた。きっと一人で悩んで、苦しんで、泣いたのだろう。
もう、これ以上彼女の重荷にはなりたくない。もしもそうなるくらいなら…。
「俺は…。」

彼女を諦める?
一瞬だけ、心臓が止まったような感覚をおぼえた。
あぁ、そうか。俺は持っていないんだ。彼女を諦める覚悟も、想いを貫く覚悟も。
自分を嘲笑う。メガネをはずして目頭を押さえた。
情けなくて、本当に涙がでそうだ。
白原にはわかっていたんだろうな、俺の弱さが。それが、何より悔しい。
もう、帰ろう。
きっと、俺には彼女を幸せにするなんてできない。

振り返ろうとしたときだった。彼女の頬に光る物が見えた。
頭でダメだとわかっていても体が勝手に走り出していた。
放ってはおけない。やっぱり彼女を諦める事なんて出来ない。

「依藤!!」

俺は走りながら精一杯彼女の名を叫んだ。








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